島原の乱 - 神田千里

神田千里 島原の乱

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神田千里 著 講談社. しかしてこれに先立つ11月27日、幕府は老中松平信綱(3万石)と大垣城主戸田氏鉄(うじかね)(10万石)を九州に派遣することを決定している。この2人はさきに遣わされた上使よりずっと格上であり、一揆を放っておいたのでは政府の根幹を揺るがしかねないと考え、本格的な討伐の作戦を発起したものと考えられる。 この両名の派遣については先に板倉・石谷の2人を上使に派遣したがゆえに今頃はすでに首尾良く鎮定され、従ってその地方は戦により荒れ地と化しているであろうから戦後処理を行わしめるため派遣する旨が諸大名に触れ出された。かかる触れには板倉・石谷の顔を踏みつけにしないようにとられた方策であろうが、流説はいかようであれ、板倉らにしてみれば心穏やかではない。1638年の元旦早々に攻囲軍は勢いに逸って四方から攻めかかったが、軍令の不徹底や事前に偵察されていたことも原因となり大敗を喫し、板倉重昌は狙撃されて戦死し、石谷は負傷した。この戦で3~4千人の寄せ手が死傷したと伝えられている。 この攻城戦が無理攻めであることは将軍家光も遺憾とするところであったとされるが、何故かかる性急な攻撃が発起されたのかは不確かな点がある。新たに上使として派遣されることになった戸田氏鉄と板倉重昌は縁つづきであり、「松平信綱と自分が参陣した後も戦が延引するようであれば、貴殿の面目が立たないから一揆に攻められよ」とする大坂からの書面が大晦日に届いたため元旦の力攻めを急遽決定したとする説があり、説得的である。 1月4日には松平信綱、戸田氏鉄が戦場に到着して信綱が総司令官となり、攻撃の方策として陣には井楼を築き、築地を掻き上げるなど持久戦の構えとし、各大名の軍に幕府より戦目付(いくさめつけ)(監察兼連絡将校)を配属し、作戦の協同一致と命令の徹底を期すこととした。また包囲を固くし、城への糧道を断ち、隧道(トンネル)を開削して城中に乗り込もうなどと企てた。 そして1月12日に板倉重昌が戦死した旨の報告が江戸へ届く。事態を重視した幕府は細川忠利(熊本)、鍋島勝茂(佐賀)、立花宗茂(柳川)、黒田(福岡)、有馬直純(延岡)らに対し、藩主が直々に戦場に臨むべきことを命じた。 そして信綱は拙速に攻撃しても軍勢を損なうだけであるゆえ、城中が疲弊するまで銃砲による攻撃を徹底して行うつもりであることを大坂城代へ申し告げ、5月には戸田氏鉄. 松平信綱は城への糧道を厳しく遮断するとともに、1月13日頃にオランダ商館長クーケバッケルに対し、平戸に停泊していた武装商船を島原へ回航し、原城に向けて砲撃を行うことを求めた。クーケバッケルは幕府の信用を得る好機とばかり自ら商船レイプ号に乗船し、他の一隻とともに2月24日島原に到着し艦砲射撃を行うと共に、兵員を上陸させ陸上からも砲撃を行わせた。 砲撃は連日のように行われ、叛徒に打撃を与えたが、オランダ側にも被害が生じた。オランダ側の挙げる数字によれば使用した砲は15門、砲弾426発を発射したという。3月1日、城内から攻撃軍に矢文が放たれ(この戦を通じて攻防軍の間に夥しい矢文合戦が行われた)、「日本には立派な武士が大勢いるのになぜ南蛮人の援助を求めるのか」と憤慨したという話も伝わっている。 何故信綱はオランダ船を城攻めに加担させたのであろうか。オランダ人に加勢を頼んだことに対する風当たりが強かったことに鑑み、戦後信綱の述べるところによれば、「城中の一揆首謀者らは南蛮人とも申し合わせ、遠からず南蛮より援兵を得られる旨を触れて百姓を籠絡しているから、それが現実ではないことを知らしめるため、同じ南蛮人であるオランダ人をして原城を砲撃させ、叛徒の迷いを覚醒させるためである。しかしこれが日本の恥になるということには思い至らなかった」として砲撃の中止を決めたという。要するにオランダ艦による砲撃は対敵心理作戦だったと言うのである。オランダ側も城中からの狙撃により死傷者を出し、砲撃の命令を迷惑に感じていたこともあり、砲撃は止んだ。.

神田千里「島原の乱―キリシタン信仰と武装蜂起」 そういえば、島原の乱についての本は読んだことがなかったなあと思ったので読んでみた次第。 島原の乱というと、キリスト教徒の反乱というイメージが強いが、実をいうと、改宗を強制されて従った. 8 講談社学術文庫 2522 所蔵館154館. 島原の乱以後、キリシタンは徹底的に弾圧されたとされるが、キリシタンと異教徒の信仰をめぐる対立についてあまり研究がなかった。「潜伏.

【無料試し読みあり】島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起(神田千里):講談社学術文庫)関ヶ原合戦の記憶も遠のいた1637年、彼らは突如として蜂起した。幕府や各地大名を震撼させ、12万人の大軍をもってようやく鎮められた大規模な一揆は、なぜ、いかにして起こったのか? 「抵抗」や. Amazonで神田 千里の島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起 (講談社学術文庫)。アマゾンならポイント還元本が多数。神田 千里作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. 島原の乱研究の決定版! 島原の乱 / 神田 千里【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア 当サイトを正常に閲覧いただくにはJavaScriptを有効にする必要があります。. . 47>~「天草、富岡城物語」 (3)NHK総合テレビ『その時歴史が動いた~島原の乱・キリシタンの悲劇』(年1月24日放送). 松平信綱は4月4日上使として太田資宗が小倉を訪れた際、資宗と共に小倉に諸大名と会同し、島原の乱に関する将軍の命を伝えた。主な賞罰は次の通りである。 1. 島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起: 著者名: 著:神田 千里: 発売日: 年08月12日: 価格: 定価 : 本体1,090円(税別) isbn:: 通巻番号: 2522: 判型: a6: ページ数: 296ページ: シリーズ: 講談社学術文庫: 初出: 本書の原本は、年、中公新書として刊行. 籠城戦においては城外からの援助がなくては城内は飢餓に陥ってしまうので援助なしに長期の籠城は不可能であり、城方はこれを期待するのが常である。松平信綱の読み筋通り首謀者が一揆勢に対し必ず南蛮から援軍がやってくるという風聞を流したとしても不思議ではない。オランダ船の砲撃はこのような夢を打ち破った点で戦略的意義があり、叛徒側の戦意は萎えたであろう。 島原の戦は1638年2月28日の総攻撃(惣攻め)によって一揆方、攻囲側双方に多くの死傷者を出したが、攻囲側は立て籠った一揆勢の悉くを摺り鉢で摺り潰すように壊滅させたとか、全員が殉教したというように考えるのは誤りである。 包囲戦の間、一揆勢から多数の落人(投降者)があった。寄せ手からも、強制されあるいは行き掛かりから籠城した者(籠城に先立ってキリスト教への改宗が強制され、一村丸ごとキリシタンとなる村もあった)には助命を約束して投降を勧奨する旨を矢文を利用して呼びかけた。 戦の経過の中で矢文の応酬は盛んに行われ、1月12日に討伐軍側から放たれた矢文は、一揆勢に対し籠城の理由は将軍家に恨みがあるがゆえか、島原藩主に恨みがあるかを一揆勢に尋ね、その理由に合理性があれば媾和を考えないでもない、上述の如き不本意ながら籠城した者には飯米を2千石を支給し、今年の年貢は免除し、将来の租税については優遇措置を講ずることなどを呼びかけている。 これに対し一揆勢は一揆がキリシタン「宗門」のことを動機として籠城している旨を述べ、キリシタン信仰の認容を幕府に求めているとする趣旨を返答している。島原の乱が俗世の問題だけではなかったことを窺わせる。 籠城者のすべてが信仰によるものではないとする洞察に基づく討伐軍からの投降の呼びかけに対し、「ともかくデウス様のお計らい次第」として降伏を拒否する矢文もあったが、討伐軍の矢文による切り崩しが効果を上げなかったとも言えない。地元の有馬直純(延岡)が矢文を通じて一揆勢との間に談合を重ねる試みもなされ、2月に入ると落人の数は次第に増えた。食糧の不足から飢餓に陥ったことも大いに影響しているであろう。 しかして投降者の数を推定することは難しい。籠城した者の数と惣責め(総攻撃)時の人数が判ればその差が投降者ということになるが、二つの数字そのものに諸説がある。籠城者の数については37,000人~47,000人、総攻撃時の数に.

書籍のゆうメール同梱は2冊まで/島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起本/雑誌 (講談社学術文庫) / 神田千里/〔著〕 0. 松平行隆・・・・戦況視察のため上使として現地に遣わされたが復命怠慢の責めを問われ改易(後に赦免)。 6. 島原の乱とキリシタンの関係は強調されるべきであるにしても、乱への参加者が全員敬虔かつ熱心なキリシタンであったわけではない。 一揆構成員の多くが上述のように「立ち帰りキリシタン」であったことからもそれは明らかである。彼らは一旦禁教令による迫害に屈して棄教し、その後キリシタンに改宗したものであり、島原の乱の過程の中では多くの者が「立ち帰った」。こうした熱心とも言えない教徒は有馬晴信、小西行長らキリシタン大名の治政下においては大勢に従ってキリシタンとなり、迫害が厳しくなってからは大勢に従って棄教した者であろう。 そして島原の乱が起きると天草四郎というカリスマの下にキリシタンへ立ち帰った。島原の乱において百姓たちは戦力としてキリシタン勢力に囲い込まれ、また藩方からも同様にしてその勢力下に組み込まれた。一般の百姓ないし領民は否応なくどちらか一方の勢力に組み込まれたのである。戦いの帰趨に応じ右往左往したことも考えられ、島原の乱全体が敬虔なキリシタンたちの受難と殉教というような単純な見方で把握するのは困難であろう。 島原の乱 - 神田千里 また島原の乱をもって、幕府という権力に対し立ち上がった反権力による体制変革であるようにとらえるのも事実に相違すると思われ、むしろ武力をもって言い分を通そうとする一種の争訟行為とみる見方が可能である。 このような見方は現代の我々にとっては受け入れ難いけれども、戦国時代まではかような形で言い分を通すことは非日常的なことではなかった。 豊臣政権を経て江戸幕府が成立する以前の中世社会においては紛争を統一的に解決する機関が存在せず、幕府、公家、荘園領主がその影響力を及ぼす範囲において夫々立法権、司法権を行使し、守護、地頭や村落(なかんずく惣村と呼ばれる地域的広がりを持つ独立村落)までが裁判権を行使していた。そのため、本来統一的司法機関があればそれによるべき紛争を当事者において自力救済的に解決せざるを得なかった。中世社会の惣村は互いに独立して当事者間の紛争を解決しようと試み、その方法は武力行使をも辞さないものであった。場合によっては領主にも対抗し、租税の減免や協定を克ちとった。 江戸幕府も三代に至ると、司法権の全国統一への動きはあったものの、未だ中世社会の紛争解決の方法よらざるを得ない気分や風潮といったものが存在していた。 島原における一般領民は他の地域と同じように庄屋たち.

上にみた如く、島原においては藩方が島原城に籠もったきり城外への出撃は思いもよらぬことのように窺われたが、そうした中、11月24日江戸から松倉勝家が帰藩する。勝家が着陣し、かつ鍋島家が唐比(からこ)(島原半島の付け根にある)まで出陣したと聞き、叛徒側は今度は城方からの攻撃を受けることになるゆえ城砦が必要であると判断し、島原半島の故城である原城を修理しておよそ25,000人が立て籠もった。12月1日頃のことであるとされている。武器弾薬や村々に蓄えられた食料、口之津にあった島原藩の藩庫から横奪した米5,000石を運び込み、天草四郎も12月3日には入城した。 籠城したのは農民たち(百姓)だけではなかった。島原の乱の指導者は一揆勢の中に5千や3千いたといわれている牢人たち武士であり、戦の指揮は彼らがとった。 一揆の中には女性や子供も含まれていた。村ぐるみキリシタンに立ち帰りないし改宗したことを想起すれば当然であろう。 上使である板倉重昌、石谷貞清は12月3日に島原に着陣し、12月6日に討伐軍は島原を出陣した。松倉勝家の弟である重利が先陣をつとめ鍋島勢が別働隊として進み、8日には勝家が進発し、10日には原城に鉄砲、大砲を打ちかけた。原城は海に面して高台にあり、堅固であったから、攻撃には容易に堪えることができた。 12日には鍋島勢が石火矢、鉄砲を打ちかけたが城内からの反撃に逢って敗退し、17日には有馬忠郷の久留米藩、立花忠茂(柳川藩)の軍勢も合流し、20日に討伐軍は鍋島、立花勢をもって攻撃したが、惨憺たる敗北を喫し、控置されていた有馬、松倉の軍勢には出番がなかった。攻撃側の抜け駆け等、軍令の不統一もあって敗北に終わったとも、上使が軽輩であり指揮が重みを持って受けとめられなかったためとも言われている。. . See full list on mclaw. 年11月6日 「島原の乱・キリシタン信仰と武装蜂起」、神田千里著、講談社学術文庫 本書は飯島和一氏の、島原の乱を背景にした小説「出星前夜」をよんで、島原の乱の実態とはいかなるものだったのかということに興味を持ち、たまたま本書が年の新. 鍋島勝茂及びその軍目付榊原職直(長崎奉行)・・・・・2月28日の総攻撃の前日に軍令を待たず抜け駆けに及んだとして出仕停止(後に赦免)。 このように幕府は戦後処理について夫々の責任に応じ責任者に罰を与えたが、他方嘉賞としては戸田氏鉄に刀一振が下賜されたのみで、極めて手薄かった。 その後天草の地には山崎家治を備中から封じ、高力忠房を浜松から封じた。 なお、幕府は武家諸法度の第4条を修正し、自今国法に背き乱をなす者があれば、隣国相助けて速やかにこれを平定するべしと改め、また軍艦に非らざる限り500石以上の大船を造ることを許すこととした。. 島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起 講談社学術文庫 - 神田千里のページをご覧の皆様へ HMV&BOOKS onlineは、本・CD・DVD・ブルーレイはもちろん、各種グッズやアクセサリーまで通販ができるオンラインショップです。. 街道をゆく 島原半島 天草の諸道: 司馬遼太郎: 朝日文庫: 1987年1月20日: 450: 天草四郎時貞、真実の預言者: 今倉真理: 碧天舎: 年10月20日 島原の乱: 神田千里: 中公新書: 年10月25日: 780: 熊本県の歴史散歩: 熊本県高等学校 社会科研究会: 山川出版社: 1993年6月. 島原の乱 : キリシタン信仰と武装蜂起 神田千里 著 (講談社学術文庫, 2522) 講談社,.

有馬村の2名の百姓が天草に行って益田時貞(天草四郎)に帰依し、キリシタンの礼拝用絵像を持ち帰って、村民を集め公然と集会を開いた。 そのとき領主である松倉勝家は江戸に在勤していたが、国許の家老は協議して有馬村においてこの2人を捕らえ城中にて斬首したが、村民達は集会をやめず10月25日、鎮定に向かった代官林兵左衛門を殺害して蜂起した。 一揆はたちまちにして燎原の火のように広がり、口之津、加津佐、小浜、北岡(南有馬)の各地において代官、僧侶、下級神官らが惨殺されたり磔にされたりした。26日には既に7箇村の村民が蜂起し、島原城下に押しかけた。 城方に味方した村民や城下町の町人たちは島原城に避難し、籠城する城方とこれを包囲する一揆方との攻防は一日中続いた。一揆勢は島原城を押し破ることは遂にできなかったが、10月27日から数日間島原城は城の周囲にある村落のキリシタンの攻撃にさらされた。松倉家の家老らは、事変を江戸に報告し、代官らは反撃に出ると共に、隣藩である細川(熊本)・鍋島(佐賀)両藩にも来援を求め、豊後に配されていた幕府の目付である林勝正、牧野成純にも急を報じた。 細川、鍋島の両藩は兵を国境に出す準備はしたものの松倉藩内へ援兵を出すには至らなかった。けだし、事変があった場合は、「江戸ならびに何れの国においても、たといなんらの事これありと雖も、在国の輩はその所を守り、下知をあい俟つべき事」とする武家諸法度(第4条)によって行動を覉束されたからである。 幕府の豊後目付もかかる想定外の事態に対処する命を予め受けておらず、幕閣の指揮を受ける外なしとして江戸へ飛脚をもって通報した。早馬によらず飛脚という悠長な方法をとったのは、事変の重大性を目付らが未だ認識していなかったためであろう。 領内の村民にとって一揆の行方の如何にはまさに命がかかっていた。城方が優勢になるのかその逆なのか、村をあげて情勢を判断していずれに味方するかを決めた。この時代は戦国時代が漸く終わったとはいえ大名や武士が百姓を軍勢に取り込んで戦(いくさ)をするという状況に顕著な変化は未だみられなかったから、城方も一揆方も村民たちを味方につけるためさまざまな工作を行い、村民は戦いの或る時は一揆勢に、或る時は城方につくという有様で、敵味方の区別も混沌として容易に見定めることができない状況であった。. 島原の乱 - キリシタン信仰と武装蜂起 - 神田千里 - 本の購入は楽天ブックスで。全品送料無料!購入毎に「楽天ポイント」が貯まってお得!みんなのレビュー・感想も満載。. 遠藤周作作品はよく知られていますので、ここでは、神田千里著『島原の乱』をご紹介したいです。 これまで乱蜂起の要因は、主に以下3つの観点から語られ、これらに耐えかねたキリシタンを中心とする農民の一揆であったと理解されてきました。. 神田千里『島原の乱』中央公論新社、年。isbn。 神田千里『宗教で読む戦国時代』講談社、年。 isbn。 東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 『オランダ商館長日記 訳文編之三(上)』。isbn. 島原の乱については初歩的な知識しかないので購入してみました。島原の乱については近年、徳川幕府によって取り潰された大名の旧臣による反乱と言う説が挙がってきて、私自身もこの説を支持していたのですが、この本はそれらの説に真っ向から反対し、あくまで島原の乱は信仰心による.

神田千里とは?goo Wikipedia (ウィキペディア) 。. 『島原の乱 (中公新書)』(神田千里) のみんなのレビュー・感想ページです(10レビュー)。作品紹介・あらすじ:大坂の陣から二十年余りを経た一六三七年、天草四郎を擁するキリシタンが九州の一角で突如蜂起し、徳川幕府に強い衝撃を与えた。. 11月5日に至り一揆の報は京都、大坂に達し、大坂定番である稲垣重長は、町奉行曽我古祐(ひさすけ)、大坂城代阿部正次、京都所司代板倉重宗の四名の連署を以って九州の諸大名に宛て、「本来幕府の指示を仰ぐべきであるが、書状の往復には時間を要し暴徒の勢いが増長するおそれがあるゆえ、臨機の措置を講ずべき旨」、「そのためには諸藩において警戒を厳重にし、蜂起の場所と他の地方との連絡を遮断し、領内において武器の売買を禁じ、自領内においてキリスト教徒の蜂起あらば下知を待つことなく速やかに誅伐し、また有馬地方には武具兵糧を入れないよう厳戒すべき旨」を通知した。 11月9日には豊後目付からの注進の報がようやく江戸に達した。幕府は板倉重昌、石谷貞清を上使として九州に派遣し、隣国大名には時宜により上使の指揮の下に出兵すべきことを通達し、叛乱の根拠地の領主松倉勝家及び豊後府内藩主日根野吉明に対しては、即刻国許へ帰還することを許し、また佐賀藩主鍋島勝茂、唐津藩主寺沢堅高に対しては、松倉藩が苦戦を強いられた場合は「同国の誼で」加勢することを命じた。もっとも板倉らが江戸を進発した際には天草(寺沢領)の叛徒が島原に呼応した旨は知らなかった。 板倉重昌は御書院番頭(三河の深溝の城主)で2万1800石、石谷貞清に至っては目付で1千石ほどの軽輩であり、幕府はどうやら此度の蜂起を通常規模の一揆とみなしていた節がある。 幕府は8月13日頃には天草にも事変が生じたことを知り、14日には細川忠利(熊本)、黒田忠之(福岡)、立花宗茂(柳川)、鍋島勝茂(佐賀)、有馬豊氏(久留米)その他九州の諸大名に対し各自の子弟を帰国させ、自領内を鎮撫するよう命じた。そして、相良頼寛(肥後人吉)、伊東祐久(日向飫肥(おび))、寺沢堅高(唐津)を含む6領主に対して領内の事態に対処するため帰国を命じた。 同時に山形の保科正之、庄内の酒井忠当にも帰国を命じた。キリシタンは東北地方にも勢力を張っており、隔地間の通信にも長けていたため幕府はこの方面に同時多発的に一揆が起きることを懸念したがゆえである。 長崎については奉行である榊原職直、馬場利重を派遣し、付近の大村、細川、立花、有馬の諸大名に長崎への出兵を命じ警備せしめた。 唐津藩士から鍋島家に対する通信によれば唐津から約3,000人の軍勢が10日頃に着陣する筈であると述べられており、その頃. 島原の乱は現代からは想像しにくい宗教的な反乱であり、われわれが考える以上に信仰が深くかかわっている。 戦国時代には、島原および天草はきりしたん大名有馬晴信の領地であり、大名の統制のもとキリスト教への帰依が推奨されていた。. 板倉重矩(重昌の子)及び石谷貞清・・・・元旦の無理攻めの挙句失敗した責任を問われ逼塞(その後赦免)。 4. 今日の授業で参照した文献の一つに神田千里著『島原の乱キリシタン信仰と武装蜂起』(講談社学術文庫年。初版中公新書年)がある。島原の乱は、日本におけるキリスト教の世紀の終焉を決定づける出来事であるから、それに言及しないわけにはいかず、本書を参照しつつ、この空前. More images for 島原の乱 - 神田千里 ».

島原において一揆が起きてわずか2日後の10月27日には、事前に示し合わされていたのであろうが、肥前国天草諸島にも一揆が飛び火した。天草はもともとキリシタン大名であった小西行長の領地であったが、関ヶ原戦役後、肥前唐津藩の飛地となり、寺沢広高が入封し、島原の乱の当時は寺沢堅高が領していた。 天草の下島北西の岬に富岡城があり、三宅重利が守っていたが、蜂起から2日後の10月29日、変報に接した重利は本渡(下島東海岸)に軍勢を派遣し、自らも同地に赴きキリシタンの指導者を処刑した。他方で重利は天草の主立った「頭百姓」から人質をとって蜂起が波及するのを抑えようとしたが、住民のうち元キリシタンで棄教していたものが再びキリシタンへ「立ち帰る」者も多く、蜂起は引き続き拡大した。こうして天草全村48箇村のうち、村ぐるみ「立ち帰り」を起こした村は8村、村民の半数が「立ち帰り」を起こした村は3村に上り、かくては鎮圧の軍勢が圧倒的に不足するとみて、重利は持久の姿勢をとりつつ唐津本藩からの来援を待つことを余儀なくされた。. 神田 千里『島原の乱』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約31件 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもできます。. 寺沢堅高(唐津)・・・・領内統治方不十分として天草の領地没収、その後自害。 2. 様々に述べられる乱の本質について、それは宗教一揆であると明確に述べられる一冊を今回はご紹介します。 今回ご紹介するのは、年に中公新書から刊行され、今年の8月に講談社学術文庫に収蔵された「島原の乱」(神田千里)です。. シェア ツイート ブックマーク 「立ち帰り」キリシタンによる“宗教戦争” 島原の乱に興味をもったのは十数年前の. 島原の乱 作者 : 神田 千里 出版社: 講談社 副标题: キリシタン信仰と武装蜂起 出版年:页数: 296 定价: 本体1,090円(税別) 丛书: 講談社学術文庫. 」と思ってくれた方がいれば、神田千里さんの著書である『 島原の乱 』がおススメです! この本は幕府側からも、一揆側からも公平に島原の乱における動機について書かれており、島原の乱の意外な姿を知るにはもってこいの一冊となっています。.

島原の乱は1637年10月に勃発し、1638年2月に終結したとされている江戸時代における最大の一揆であり、幕末に起きた戊辰戦争を除くと江戸時代を通じて勃発した最大の内戦である。 島原の乱はまず肥前国高来郡島原藩(領主:松倉勝家)に起きた。 島原はもと有馬晴信の所領で、晴信がキリシタンであったことからキリスト教信仰が盛んな土地柄であったが、1614年に有馬氏が転封となり、代わって松倉重政が入封した。重政は江戸城改築の普請を命ぜられるなど、これが島原領の財政を圧迫し、いきおい領民に対して重税を課すもととなった。そして重政はキリシタンに対する弾圧も開始するなど領内の統治は安定を欠いていた。 1637年、肥前・肥後地方は飢饉に見舞われており、平戸にいたオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルは当代の領主松倉勝家が「領民には取れる限りの重税を課し、彼らは殆ど餓死寸前であった」とする日記を残している。そのうえ松倉家は税が滞納していることを理由に領民を川の中に漬けるなどの拷問を行い徴収を強制した。こうした苛政への恨みはいつ蜂起が生じても不思議ではない状況を招いていた。一揆勢は後述の通り1637年10月25日に蜂起したのであるが、既に10月も下旬にさしかかる頃には不穏の動きがあるという噂が島原に流れ、代官たちは分担してその動きを偵知しようと試みていた。. 著者 神田 千里 出版日. 00 (0件) 商品詳細. 島原の乱-キリシタン信仰と武装蜂起: 神田千里: 講談社学術文庫 2522: 講談社: /08 発売 ( 文庫・294ページ ) isbn:: 価格: 1,199円 ( 本体: 1,090円 ). 松倉勝家・・・・同様の理由でいったん改易。その後領内における別の不行届が露見し、かつ統治について残忍なる処置があったことを理由に斬罪(切腹説もある)。 3.

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島原の乱 - 神田千里

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